他の職種と比較しても、看護師の退職時にトラブルが多いのには明確な理由があります。それは医療現場の構造的な問題に起因しています。

1. 深刻な人手不足という現実

看護の現場は慢性的な人手不足です。特に経験豊富な中堅看護師が一人辞めることは、病棟の運営に直結する大問題となります。「あなたがいなくなったら現場が回らない」という言葉は、決して大げさではなく、残る同僚への負担が即座に増大するのが現実です。

2. 「お互い様」と責任感による束縛

看護はチーム医療です。「自分が休むと同僚に迷惑がかかる」という責任感や、「お互い様」という文化が非常に強く根付いています。この文化が、退職という「チームを抜ける」行為に対して、強い罪悪感を抱かせ、上司(師長)がそこ(同僚への迷惑)を指摘して引き止める材料になりがちです。

3. 「専門職」ゆえの閉鎖性

看護師は高度な専門職であり、代わりが簡単に見つからないという側面も、退職交渉を難航させる一因となっています。


看護師が遭遇する退職トラブル【7つの典型事例】

実際に多くの看護師が経験する、代表的なトラブル事例を見ていきましょう。

事例1:「辞めさせない」という感情的な引き止め

最も多いトラブルです。退職の意向を伝えた途端、上司(師長)から「今辞められたら困る」「無責任だ」「みんな頑張っているのに」といった感情的な言葉で強く引き止められるケースです。面談が何度も設定され、疲弊してしまうこともあります。

事例2:「後任が見つかるまで待って」

一見、正当な理由に聞こえますが、これはしばしば退職を引き延ばすための口実として使われます。人員補充は経営側の責任であり、退職する看護師がその責任を負う必要は法的にありません。「いつになるか分からない」後任の着任を、退職の条件にすることはできません。

事例3:有給休暇を消化させてもらえない

「辞めるくせに有給なんて信じられない」「人手が足りないのに休む気?」と言われ、退職日までの有給休暇の取得を拒否されるケースです。これは明らかな法律違反(労働基準法)です。

事例4:「損害賠償を請求する」という脅し

特に小規模なクリニックや施設などで稀に聞かれます。「あなたが辞めたことで生じた赤字を請求する」「研修費用を返してもらう」などと脅されるケースです。しかし、これは単なる脅し文句であり、法的に認められることはほぼありません。

事例5:ボーナス(賞与)が支払われない

退職の意向を伝えた途端、支給されるはずだったボーナス(賞与)が不支給になったり、大幅に減額されたりするケースです。これは就業規則の「支給日在籍要件」などによって判断が分かれるため、注意が必要です。

事例6:退職日を一方的に先延ばしにされる

「退職届は受け取ったけれど、退職日は3ヶ月後にして」など、こちらの希望を無視して退職日を一方的に決められてしまうケースです。

事例7:退職日までのあからさまなハラスメント

退職が決まった途端、無視されたり、わざと大変な業務ばかりを割り当てられたりする、いわゆる「退職ハラスメント」を受けることもあります。


トラブル対処の拠り所は「法律」です

これらのトラブルに対し、感情論で戦う必要はありません。労働者として守られるべき「法律」という絶対的な根拠を理解しておくことが、最大の防御策となります。

【大原則】民法第627条「退職の自由」

まず大前提として、労働者には「退職の自由」があります。

これは日本の民法第627条で定められています。正職員(無期雇用)の場合、労働者は退職の意思を伝えてから「2週間」が経過すれば、雇用関係は終了すると定められています。

病院の就業規則に「退職は1ヶ月前(または3ヶ月前)までに申し出ること」と書かれていても、法律(民法)が就業規則よりも優先されます。たとえ病院側が「認めない」と言っても、法的には2週間で退職が成立します。

「損害賠償請求」は脅しです

退職によって病院が損害賠償を請求できるのは、「労働者が悪意を持って、病院に損害を与えるためだけに辞めた」など、極めて特殊なケースに限られます。 「人手が足りなくなる」というのは病院の経営・採用の問題であり、退職する看護師個人の責任ではありません。損害賠償をちらつかせる行為は、脅迫にあたる可能性もあります。

「有給休暇の消化」は労働者の権利

年次有給休暇の取得は、労働基準法で定められた労働者の権利です。会社(病院)側には、業務に支障が出る場合に「別の日にずらしてほしい」とお願いする権利(時季変更権)しかありません。

しかし、退職予定日を超えてずらすことはできないため、退職日までに残った有給をまとめて消化する申請は、病院側は原則として拒否できません。拒否すれば法律違反となります。

「ボーナス(賞与)」は就業規則を確認

ただし、ボーナス(賞与)は注意が必要です。賞与は「給与」とは異なり、その支払いルールは各法人の就業規則(給与規程)に委ねられています。

多くの病院では「賞与支給日に在籍していること」を支払い条件としています。例えば、支給日が12月10日の場合、12月9日付で退職してしまうと、査定期間中に勤務していたとしても、1円も受け取れない可能性があります。これは不当な扱いではなく、就業規則に基づく合法的な処理です。


トラブルを防ぐ「円満退職」のための5つのステップ

法律は最終手段です。可能な限り、無用なトラブルを避けてスムーズに退職する(円満退職)のが理想です。そのための具体的なステップをご紹介します。

ステップ1:就業規則(退職規定)を確認する

法律上は2週間で退職可能ですが、社会通念上、また業務の引き継ぎを考慮し、ほとんどの病院では「退職の1〜2ヶ月前」を申し出の期限としています。円満退職を目指すなら、まずはこの就業規則に従うのが最善です。

ステップ2:直属の上司(看護師長)に「相談」の形で伝える

いきなり「辞めます」と退職届を出すのはトラブルの元です。まずは直属の上司である看護師長に対し、「ご相談したいことがあります」とアポイントを取り、会議室など他のスタッフがいない場所で、口頭で退職の意向を伝えます。

  • 伝えるべきこと: 「退職の意思(固い決意であること)」と「希望する退職日」
  • 退職理由は?: 「一身上の都合」で十分ですが、聞かれた場合は「次のキャリア(例:在宅医療に挑戦したい等)」といった前向きな理由か、家庭の事情など、引き止めにくい理由を準備しておくとスムーズです。現職への不満をぶつけるのは避けましょう。

ステップ3:強い引き止めにあっても「感謝」と「決意」で対応する

師長も立場上、必ず引き止めます。その際は、これまでの感謝を述べつつも、「すでに考え抜いて決めたことである」という毅然とした態度を示すことが重要です。「考え直します」といった曖昧な返事をすると、交渉が長引きます。

ステップ4:正式に「退職届」を提出する

口頭での合意ができたら、速やかに「退職届」を作成し、規定のルート(通常は師長→看護部長)で提出します。口頭だけでは「聞いていない」と言われるリスクがあるため、必ず書面で提出してください。

ステップ5:完璧な引き継ぎと最後の挨拶

退職日までは、プロとして完璧に業務をこなし、後任者や同僚のために丁寧な引き継ぎ資料を作成します。最終日には、残るスタッフへの感謝を伝えることで、良好な関係のまま退職できます。


もし交渉がこじれ、辞めさせてもらえない場合は

円満退職を目指しても、前述のトラブル(違法な引き止め)に遭遇した場合は、以下の法的手段を取ります。

「退職届」を内容証明郵便で送付する

師長が退職届を受け取ってくれない、話を聞いてくれない場合は、病院の最高責任者(理事長や院長)宛に、**「内容証明郵便」**で退職届を郵送します。

これは「いつ、誰が、誰に、どんな内容の文書を送ったか」を郵便局が法的に証明する制度です。これが病院に届いた時点で、「退職の意思表示をした」という法的な証拠が残り、病院側は「知らない」とは言えなくなります。これを行えば、2週間後に退職が成立します。

公的な相談窓口を利用する

未払い賃金(給与や違法なボーナスカット)や、有給休暇の不当な拒否については、管轄の**「労働基準監督署」**に相談してください。


正しい知識があなたを守ります

看護師が退職時にトラブルに遭うのは、多くの場合「辞めたら申し訳ない」という優しい責任感と、法律知識の不足につけこまれるためです。

あなたには法律で認められた「退職の自由」があります。トラブルを恐れず、しかし円満退職のための配慮(事前の相談や誠実な引き継ぎ)を尽くすこと。この2つのバランスが、あなたの次のキャリアへの第一歩を守ります。